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東京高等裁判所 昭和52年(ネ)2421号 判決

控訴人

藤沢市

代表者市長

葉山峻

訴訟代理人

楠田進

訴訟復代理人

鈴木孝夫

被控訴人

奈良橋アイ子

訴訟代理人

鈴木康洋

主文

原判決中控訴人敗訴部分を取消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実《省略》

理由

一〈証拠〉を総合すると、

被控訴人は金融業を営んでいるものであるが(この点は当事者間に争いがない)、昭和四七年一一月一〇日、訴外滝沢博文から、訴外ツネに対し同人所有の神奈川県藤沢市亀井野字不動上五一六番畑一一九六平方メートルを担保にして金七五〇万円を貸してやつて欲しい旨頼まれ、同人の印鑑証明書や委任状等の書類を見せられ、さらに、右土地を案内されて担保価値もあると思われたし、翌一一日には右滝沢から訴外ツネであると紹介された訴外某女が、訴外ツネの印鑑証明書を所持していたことや、その年令が同証明書記載のものとほぼ一致していると思われたことから、これを訴外ツネ本人であると信じ、同人に金七五〇万円を貸付けることとし、同人及び滝沢等と共に野谷司法書士の事務所に赴き、同司法書士に対し、訴外ツネ所有の右土地について右貸金債権を担保するため被控訴人を登記権利者、訴外ツネを登記義務者とする抵当権設定の仮登記及び停止条件付所有権移転の仮登記の各申請手続代行の事務を嘱託し、これに必要な委任状、印鑑証明書等関係書類を交付した。同司法書士は右関係書類を検討し、被控訴人及び訴外某女に対し、書類は整つているが同日は土曜日であるから申請手続は同月一三日の月曜日となる旨告げたが、被控訴人は書類が整つている以上右各登記は確実になされるものと信じ、その場で訴外某女に対し、金七五〇万円を貸付け、このうち月五分の利息を天引し金七一二万五、〇〇〇円を交付した。ところが、翌一二日同司法書士に対し、訴外ツネ本人から自分は右登記申請手続代行の事務を嘱託していない、印鑑証明書は他人が偽造印により交付を受けたものである旨の電話があつたので、同司法書士は直ちにその旨被控訴人に連絡したが、被控訴人の強い要請により、翌一三日横浜地方法務局藤沢出張所に対し前記関係書類等を提出して登記の申請をした。しかし、同出張所登記官は、同月二八日、右申請は訴外ツネの委任状に押捺されている同人の印影と、同人の印鑑証明書の印影とが相違しているから代理権限証書の提出がないことに帰することを主たる理由として、右申請を却下した。

以上の事実を認めることができ、〈証拠判断略〉他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

ところで、〈証拠〉を総合すると、右登記申請に使用された訴外ツネの印鑑証明書は、訴外鹿造がその妻であつた訴外ツネの印章を偽造し、同月一日、控訴人に対し、右偽造にかかる印章を利用しその印影を顕出させた印鑑登録証明交付申請書及び偽造にかかる委任状を提出し、訴外ツネの代理人と称してその印鑑証明書の交付申請をしたところ、控訴人の担当職員は同日訴外鹿造に対し、同女の印鑑証明書を発行、交付したこと(控訴人が右同日訴外鹿造に対し同女の印鑑証明書を発行したことは当事者間に争いがない。)が認められ、右認定に反する証拠はない。

そこで、以下右印鑑証明書の発行を担当した控訴人の職員に過失があつたか否かを検討することとする。

印鑑証明事務が地方自治法に基づいて控訴人が行う公共事務であることは当事者間に争いがない。〈証拠〉を総合すると、控訴人は、昭和四七年当時、その住民から印鑑登録申請のあつた印鑑を押捺した印鑑登録票を登録原薄に保管し、印鑑証明書の交付申請があつたときは、申請書に押捺されている印影と印鑑登録票の印影とを照合することによつて本人あるいは代理人による真正な申請であることを確認したうえ、印鑑登録票を複写しこれを印鑑証明書として交付する、いわゆる間接証明方式をとつていたことが認められる(従つて、交付される印鑑証明書は常に正しい印影の写しであるから、本件においては被控訴人においても偽造印による印影と照合する機会はあつたということができる。ちなみに、控訴人がいわゆる手帳方式を採用したのは昭和四九年一〇月以降である。)。ところで、印鑑証明書は、財産上の取引文書の作成名義人の真正や本人の同一性を確認する重要な資料として、一般取引上のみならず、公正証書作成の嘱託や登記の申請のような公的手続においても使用されているものであるから、誤つた印鑑証明がなされたり(もつとも、右間接証明方式による場合には、印鑑証明書発行の段階においては、誤つた印鑑証明がなされる余地はない。)本人の全く関知しない間に他人に対して印鑑証明書が発行、交付されたりするときは、これを不正に使用されるおそれがあるものといわなければならない。従つて、印鑑証明書の発行事務を担当する控訴人の職員は、右事務を処理するにあたり、右間接証明方式によるときにおいても慎重な注意を払うべき職務上の義務があるというべきであるが、この場合、右職員は、申請人が本人又はその代理人であることを確めるため、申請書及び委任状に押捺されている印影と印鑑登録票のそれとの同一性を照合するについては、両印影を肉眼によりその大きさ、型状、字体等を詳細に検討してその同一性を確認すれば足り、疑いをさしはさむべき特段の事情のないかぎり拡大鏡等を使用する精密な照合をする必要はないものというべきである。けだし、拡大鏡等を使用した精密な照合を常に要求することは、多数のこの種交付申請に迅速に応じなければならない事務の実状〈証拠〉によれば、本件印鑑証明書発行当時の控訴人における一日当りの証明書発行件数は五三八件にも及んでいたことが認められる。)や控訴人が前記のように間接証明方式により印鑑証明書を発行、交付していたこと等からみて、妥当ではないと認められるからである。

〈証拠〉によると、控訴人においては、昭和四七年当時、右印鑑の照合について、申請書に押捺された印影と印鑑登録票のそれとを肉眼で比較検討し、同一性について疑問が生じたものは、申請書の印影をセロハンで写し取り、これを印鑑登録票に重ね合わせ、なお疑問の残るものについては拡大鏡により点検していたことが認められるが、本件印鑑証明書の発行に際しては右のように肉眼で比較検討をした結果その同一性につき何ら疑問を生ずるに至らず、前記認定のとおり発行、交付したことが認められ、右認定に反する証拠はない。

ところで、〈証拠〉によれば、本件申請書及び委任状に押捺してある印鑑欄あるいは訴外ツネ名下の印影と、同人の印鑑登録票の印影とを拡大し、さらにこれを重ね合わせて精密に比較検討してみると、字画線の構成及び一部の形態に相違点を容易に認識することができるが、両印影を実物大(直径約一二ミリメートルの円型輪郭の中に楷書体風の「杉山ツネ」字がせん刻されている。)に即して肉眼で詳細に比較検討した場合には、右のような相違は認識しえず、その輪郭線の大きさ、字画線、書体等は酷似し、肉眼では識別が困難な程度であり、その部分に相違があることを前提にして注視すれば、「山」の字の下辺の長さ、その第三画の上部の形態、「ネ」の字の第一画の形態と第二画斜線の終筆部の形態等に相違点があると認められなくもないが、右各相違点はいずれも微細なものであつて、その部分に相違があることを前提にしないで見ると、その識別は慎重な注意を払つても必ずしも容易なものとは認めがたく、従つて控訴人の担当職員が右両印影について肉眼照合により疑問を抱かなかつたことは無理のないことであつたというべく、その同一性につき疑問を抱いて拡大鏡等による照合の措置をとるに至らなかつたとしても、これに過失があつたとすることはできず、また、訴外鹿造の正当な代理権の存否についてその確認のため適当な他にとりうべき手段を行使するに至らなかつたとしても、これに過失があつたとすることはできないというべきである。

そうとすれば、控訴人の担当職員に右のような過失があることを前提とする被控訴人の本訴請求は、その余の点につき判断するまでもなく理由がないこと明らかであるからこれを棄却すべきである。〈以下、省略〉

(川島一郎 田尾桃二 小川克介)

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